【読書レビュー】苫米地英人著「お釈迦さまの脳科学」(2回目)【要約】&【感想】

みなさんは、仏教のことを知っていますか?

 

私の実家は、浄土真宗のお坊さんにお世話になっています。

毎年、お盆の頃になると、実家にお坊さんがやってきて仏壇の前でお経をあげます。

とはいっても、近年はお坊さんが高齢のため、実家まで来ることができなくなりました。

なので、家族そろってお坊さんのお寺に行っています。

そして、何組かの家族が集まったところで、お坊さんが読み上げるお経を聞いているそうです。

 

私も一応仏教徒ということになるのでしょう。

ですが、仏教のことについてはほとんど知りません。

では、仏教とはどのような教えなのでしょうか?

 

著者は、これまで日本には仏教が伝わっていなかったといいます。

日本には、浄土宗、浄土真宗日蓮宗曹洞宗などといった様々な仏教の宗派がありますよね。

いったいどういうことなのでしょうか?

 

著者は、日本の仏教は中国を経由して入ってきていることを指摘します。

つまり、日本の仏教は道教儒教が混ざり合わさった形で伝わっているというのです。

なので、日本に伝わっている仏教というのは、お釈迦さまの教えた「本当の仏教」からはだいぶ変わった形になっているというのです。

 

例えば、葬式のときに戒名が書かれる位牌があります。

位牌は、儒教の葬式のときに使われていた「神主(しんしゅ)」が元になっているもののです。

元々は死者の官位を書くための札なので、「位牌」というそうです。

 

日本に伝わっている仏教がだいぶ変わった形になっているからといって、著者は日本の仏教が決して劣っているものではないといいます。

日本の仏教も優れた宗教ではあるけれど、お釈迦さまの教えとは違っていますよということが言いたいのです。

では、お釈迦さまの教えとはどのようなものなのでしょうか?

 

お釈迦さまの時代、僧侶になるためには出家をしていました。

出家のためのルールとしては

「出家するときは財産を持ってこないでください」

「財産は家族に譲ったり地元に寄付するなどして無一文でやってきなさい」

というようなものだったそうです。

 

お釈迦さまの時代は、宗教法人も寺院もなかったので、

「お布施をしますよ」

と言われても、逆に困ってしまうわけです。

そして、無一文でやってきた出家者には、衣と托鉢用のお椀と楊枝が与えられたそうです。

衣といっても、もともとは死体置き場のような所から拝借してきた布だったそうです。

そして、死体をくるんでいた布を洗い、それをつなぎ合わせて衣を作っていたのです。

今でも僧侶が着る「袈裟」(けさ)のことを、糞掃衣(ふんぞうえ)と言うそうです。

これは、死体の糞尿の黄色い色が洗っても落ちないことと、布をつぎはぎして作っていたことからそう言われるようになったそうです。

 

私の身近にいるお坊さんで黄色い色の袈裟を着ている人は記憶にありません。

お坊さんが着ている袈裟といえば、黒色か紫色という印象です。

しかも、素材はボロ布ではなく、立派な絹の衣だった記憶です。

 

お釈迦さまは相手によって様々なたとえ話で教えを説く待機説法という方法をとっていたそうです。

さらに、お釈迦さまは、自分が死んだ後も上流階級であるバラモンにしか分からない文語の難しい言葉ではなく、一般大衆の人でもわかる口語の話し言葉で教えを語り継ぐように弟子に指示をしたというのです。

 

お経というのは「お釈迦さまはこのように語っていた」という話を集めたものです。

ところが、途中から一部の勢力の人たちが自分たちが扱っているお経を権威あるものとして見せるために、お経をごく一部の知識人であるバラモンにしか読めない文語(サンスクリット)にしてしまったのです。

そうなると、お経は

「一般大衆の人には理解できないわけのわからない呪文」

へと姿が変わってしまったわけです。

一般大衆の人には意味がわからないけれど、とにかくありがたいと思わせる効果があったかもしれません。

 

ほとんど知られていないことらしいのですが、どうやらお釈迦さまは暗殺されたようなのです。

経典に「釈迦はチュンダという在家の信者が出してきた毒キノコにあたって亡くなった」

と書いてあるそうです。

今となっては科学的な鑑定はできないので、真相はわかりません。

ですが、状況としてお釈迦さまは暗殺されているというのです。

 

では、なぜお釈迦さまは暗殺されたのでしょうか?

それは、お釈迦さまとその教団がカースト制度に反したからだというのです。

そもそも、お釈迦さまはバラモン(司祭階級)より1つ下の階級であるクシャトリヤ(王族)出身です。

バラモン以外の階級の人が布教活動をすること自体、カーストに反することだったのです。

 

そして、最も問題とされたのは、人間扱いをされていないアウト・カーストと言われる身分の人たちをお釈迦さまの弟子にしたことです。

出家してお釈迦さまの弟子になるということは、最上位のバラモンの位になったと周りの人からは見られるのです。

このことが、当時の社会からは相当な反発を招いたのではないかというのです。

 

お釈迦さまが暗殺されたことは、同じく暗殺されたマハトマ・ガンジーマーティン・ルーサー・キング牧師のような社会運動家と似ているといいます。

 

時代が変わっても、人間は同じようなことを繰り返していることがわかります。

新しい考えが出てくると、それを潰そうと古い人たちに叩かれるのです。

人間の本質的なところは、お釈迦さまの時代からまったくといっていいほど変わっていないのではないかと感じます。

 

日本人にもお馴染みの「般若心経」というお経があります。

みなさんも名前は聞いたことがあるのではないでしょうか?

そして、この「般若心経」はニセモノのお経であることが、アメリカやヨーロッパの学会では定説化しつつあるというのです。

いったいどういうことなのでしょうか?

 

著者は「般若心経」が言っている内容に問題があるといいます。

それは有名な「色即是空 空即是色」という一節です。

「色」とは物質(有)のことを意味します。

そして、物質に対応する反対語は「無」になります。

「空」というのは、「有」も「無」も両方含んでいるさらに上の考えになります。

 

なので、「色」(物質)というのは「空」であるとは言えるでしょう。

ですが、「空」は「色」(物質)であるとは言えません。

例えば、犬で考えてみましょう。

「チワワ」は「犬」であるとは言えます。

ですが、「犬」は「チワワ」であるとは言えませんよね。

「犬」の中には「チワワ」だけでなく「プードル」や「柴犬」「ブルドック」など、色々な種類の犬がいるからです。

著者は、こうした間違いが起こったのは、般若心経を書いた人が「空」という意味をわかっていなかったからではないかといいます。

 

般若心経というと、日本でも一番といっていいほど有名なお経です。

そのお経の内容が間違っているというのには、正直驚きました。

著者に般若心経の一部が間違っていることを解説してもらうと、「なるほど」と理解できます。

般若心経が話し言葉ではなく、漢字だけで書かれた意味がわからないものになっていることも間違いが起こった原因ではないかと思うのです。

私たちは長いあいだずっと、意味がよくわからないまま間違っているものを、ありがたがってきたわけです。

 

お釈迦さまは「神」というものを否定しています。

つまり「それだけで絶対的なもの」はないと言っているのです。

 

このことをお釈迦さまは「縁起」という考え方で説明しています。

1本の木から種が落ちて、その種から次の木が生えてきました。

お釈迦さまは、その木を指して、

「これは生じたのですか?」

と弟子に聞いたそうです。

弟子は「生じていません。」と答えます。

もともと種はあったし、その種は木から来ています。

その木は、さらに前の木からつながっています。

1度も無から生じたことはないのです。

このように「生じることもなく、滅することもない」のが縁起だというのです。

 

絶対的なものは何もないと言っても、仏教は「だから何をやってもいい」という宗教ではありません。

仏教には戒律という守るべきルールがあります。

このルールを破ったからといって別に罰があるわけではありません。

ですが、因果の法則によってルールを破ったことの結果は自分に返ってくるという考えなのです。

 

「人の悪口を言えば、自分に返ってくる」

「情けは人のためならず」

という言葉をよく聞きます。

これらの言葉は、自分がやったことはそのまま自分に返ってくるというお釈迦さまの教えが入っていると言えるでしょう。

このように身近な言葉から、お釈迦さまの考えに触れていたのだなと思います。

 

仏教の本質は、お釈迦さまが悟りによって得た教えにあると著者は言います。

では、お釈迦さまの「悟り」とは何なのでしょうか?

 

お釈迦さまは瞑想によって自我はないことを知りました。

それが「悟り」だというのです。

宇宙のすべてのものを同じように重要だと感じ、あらゆる価値観から解放された状態が悟りだというのです。

そして、悟ってしまえば誤った認識はないので苦しみはありません。

つまり、煩悩から解放された状態になるのです。

 

私には悩みや欲望がいっぱいあります。

ということは、私は悟りの境地からはすごく離れたところにいるということになります。

私が悟りを得るのはまだまだ先のことになりそうです。

 

さらに著者は、悟りというのは体感なので、理屈を知るだけでは悟りを得ることはできないと言います。

この世を幻として認識する「空観(くうがん)」。

この世はリアルであるという「仮観(けかん)」。

この世を幻と認識した後に、自分がこの世界でどのような役割を果たすかを決めて、その上さらに、他の人にもそれぞれ役割があると認められるようになる「中観(ちゅうがん)」。

これらのことを体感として理解できれば、お釈迦さまのことが本当にわかるといいます。

そして、ひとりひとりが理性を超えた本当に自由な存在になれるというのです。

 

私は、悟りについて頭で理解することはもちろんですが、体感することなどまだまだという段階です。

ですが、お釈迦さまの生き方や考え方に触れることで、今の自分にできることから何か始めていくことはできると思うのです。

そして、その結果として少しでも悟りの境地に近づいていくことができればいいのではないかと思います。