【読書レビュー】平川克美著「小商いのすすめ」【要約】&【感想】
みなさんは、今の生活に豊かさを感じていますか?
私は、約20年間、サラリーマンとして働いてきました。
金銭的には、金持ちではありませんが、かといってお金に不自由することはないレベルです。
特に独身時代は、時間的にも金銭的にも比較的自由に自分の好きなことができていたと思います。
なので、とりあえず独身時代までは金銭的な豊かさを満喫できていたといえるでしょう。
そんな私も5年ほど前に結婚し、すぐに子供が生まれました。
一人暮らしから3人暮らしに変わったことで、金銭的、時間的に制限が加わりました。
その上、職場の給料は数年前から少しずつ下がっています。
一方で、生活用品などは100円ショップに行けば、とても100円とは思えないほどの高いクオリティの商品が並んでいます。
道の駅や産直市に行けば、新鮮な旬の野菜や果物などをとても安い値段で買うことができます。
経済状況はプラスの面もあればマイナスの面もあります。
ですが、今のところ子供が小さいこともあり、まだなんとか金銭的にはなんとかやっていけているという状況です。
とはいうものの、ここ数年の私個人の金銭的な肌感覚としては、年々少しずつ経済的には不景気になってきているという感じがしています。
本書は「小商いのすすめ」というタイトルです。
ですが、書かれている内容は、小さな会社を始める方法や戦略などについて書かれたビジネス書ではありません。
では、「小商いのすすめ」とはどういうことなのでしょうか?
著者は、多くの日本人は、未だに日本が経済成長していくと思い込んでいるように見えるようです。
ですが、ヨーロッパやアメリカといった先進国の状況や、日本を取り巻いている経済状況などを見てみると、もはや日本の経済成長は止まっています。
むしろ、これからの日本は経済的には小さくしぼんでいくといいます。
ですから、そのことを自覚して、小さな経済で身の丈にあった生活をしていくべきではないかというのです。
まず、著者は、自分が幼い頃を過ごした高度経済成長期前後の生活風景を紹介してくれます。
高度経済成長期の昭和39年(1964年)は、ちょうど東京オリンピックが開催された年です。
東京オリンピックの前と後とでは、同じ時代にもかかわらず、雰囲気がガラッと違ってしまったといいます。
それは、オリンピックによってもたらされた急激な好景気によって、身の丈を超えた経済成長が日常生活の中に現れてきたからです。
著者は、経済的に豊かになり生活が便利になることが、どうして世の中がよくなることにつながっているのか疑問を感じるようになります。
なぜかというと、捨てるほどの物に囲まれている一方で、環境破壊や貧困問題などが発生しているからです。
著者は、東京オリンピック前は、日本人はみんな貧乏だったが、貧しかったがゆえの豊かさがあったといいます。
今の社会状況を見ると食べる物に不自由することはなくなりました。
確かに物質的には豊かになりましたが、実際に豊かさを実感できている人は少ないのではないでしょうか?
むしろ、大きな物質的な欲望に追われ、毎日虚しさを感じながら生活をしているというのが実態ではないかというのです。
著者は、内閣府SNAサイトから、1956年から2010年までの日本の経済成長を20年単位に区切って紹介しています。
そのサイトによると、日本の経済成長率は
1956年から1973年までは、平均9.1パーセント。
1974年から1990年までは、平均4.2パーセント。
1991年から2010年までは、平均0.4パーセント。
となっています。
大量生産、大量消費によって作られていた高度経済成長が終わっているというのは、このグラフをみるだけでも明らかだといえるでしょう。
私がここ数年、少しずつ経済的には不景気になっていると感じているのも、このグラフを見ればなるほどと納得してしまいます。
著者が小さい頃、商店街の中には帽子屋があったそうです。
また、その頃上映されていた映画の中でも、男性は帽子を被っていたそうです。
つまり、その頃は帽子屋というものが商売としてやっていけたというのです。
商売としてやっていけた理由は1つしかないといいます。
それは、当時の帽子屋が徹底した小商いだったからというのです。
つまり、一日に数個の帽子が売れれば商売としてやっていけるようなコストバランスで商売をやっていたからだというのです。
ここで著者は、橋本治さんの「貧乏は正しい!」というエッセイの一部を紹介してくれます。
そのエッセイの文章から、貧乏というのは、若さや強さ、美しさ、野生といったことと同じ意味だということを解説してくれます。
つまり、当時の日本人は貧乏だったがゆえに、貧しいことの強みを生かすことができたというのです。
ですが、今の日本は経済的に成長し富を手にしてしまったために、貧乏の中にある強みを失ってしまったというのです。
著者は、東日本大震災が起こったことに大きなショックを受けます。
それは、「津波の災害」や「原発事故」があるかもしれないと心のどこかで思っていたことが、いつのまにか
「あるかもしれないが、ないかもしれない」
に変わっていたからだというのです。
人口減少や超高齢化社会といった問題にも同じことがいえるといいます。
東日本大震災は、今の自分たちの生活を一度見直してみるときが来ているサインではないかというのです。
では、私たちはどのような生活を目指していけばいいのでしょうか?
文明を捨てて山篭りをすることでしょうか?
田舎に行って自給自足の生活をすることでしょうか?
そこまで極端なことを著者は求めていません。
ここで著者が提案するのが、小商いのすすめなのです。
では、小商いとはどのような生活なのでしょうか?
それは、本来自分に責任がない「いま・ここ」にある自分に対して、責任を持つという生き方です。
つまり、人間が集団で生きていくためには、理屈に合っていない損な役回りを引き受ける必要があるというのです。
理屈に合っていない損な役回りとはどういうことなのでしょうか?
それは、何も見返りを期待することなく与えることだというのです。
見返りを期待することなく与えることで、大人になれるというのです。
そして、大人になり責任がないことに責任を持つようになったときに、はじめて「いま・ここ」に生きていることに意味が生まれてくるというのです。
小商いは、自分が売りたいものを、売りたい人に直接届けることです。
ですから、小商いをするのに大きな会社やお金は必要ありません。
そうすると、当然、大きな儲けを得るということはありません。
ですが、商品を売る人が、商品を買う人との関係を長く続けていくことで、社会に必要とされていると実感できることが重要だというのです。
小商いは、さまざまな条件の中でも、何とか生きていけて、笑いながら苦境を乗り越えていけるためのライフスタイルであり会社のあり方だというのです。
私はある程度、規模の大きな職場で働いています。
ここ数年の職場内の動きを一部ご説明すると、機械化、ペーパーレス化という名目で、仕事量は5、6年前から倍近く増えています。
仕事量が増えることはあっても、減ることはありません。
一方で、職員の数は少しずつ減らされています。
さらに、年齢的にはかなり上の役職にある職員が、新人のポジションで簡単な仕事をやり続けていたりします。
つまり、給料分の働きをしていない人が少しずつ増えているのです。
そういった人たちも数の上では一人としてカウントされます。
その結果、若い職員や中堅の男性職員に仕事のしわ寄せがきています。
そういった状況の中、管理職のポストだけは少しずつ増えています。
無理をしたしわ寄せは、必ずどこかに発生します。
そのしわ寄せ先が、若い職員や独身職員になっているというのが現状です。
私も若くはありませんが、自分が動ける間はお互い様なのだから、なるべく役に立とうとしんどい部署での勤務も長く引き受けてきました。
ですが、それも長年続くと心身が持ちませんでした。
職場を恨む気持ちがないといえばウソになります。
ですが、そんな気持ちでいても自分が苦しくなり、自分を追い詰めるだけです。
なので、実際に倒れるまで自分の限界にチャレンジし続けた自分を褒めるように考えを切り替えました。
一昔前は、大きな会社に入ると一生安泰だと言われていました。
私の両親は、今でもそのような話をします。
ですが、今の社会状況を見ると、むしろ、大きな組織にいることの方がリスクなのではないかとさえ感じます。
自分の職場について、これから少し先の将来を考えても悲惨な状況しか想像できません。
これからは、ますます小商いが必要とされ、小商いがちょうどいいと感じる時代になっていくような感じがしています。