こがみのり著「神様に愛される一杯のお茶習慣」について

みなさんは、普段、お茶を淹れて飲んでいますか?

 

私は、実家にいた頃は、食事時に煎茶を急須に淹れて飲む機会が多かったのですが、一人暮らしを始めてからは、急須にお茶を淹れて飲むことはなくなりました。

今の時代、季節に関係なく、スーパーやコンビニに行けば様々な種類のペットボトルのお茶が売られていますし、冬でも麦茶パックが売られています。

このように、私たちは、お茶が飲みたいと思えば、いつでも、どこでも、気軽にお手軽な価格で手に入れて飲むことができます。

ちなみに、私の家では、妻と子供が年中、麦茶パックを使って麦茶を飲んでいます。

 

人生に迷ったら「お茶に」に聞いてみよう。

何か気になる言葉ではありませんか?

 

お茶は、人の心を写す鏡のようなもので、同じお茶を、同じ茶器で、同じように淹れても、誰がどんな心で淹れるかによって味が全く変わるのだそうです。

例えば、誰にも言えない悩みを抱えていたら、ドロっと重たい感じのお茶になります。

見栄っ張りで本心を隠していたら、口当たりはいいようで後味が悪い渋いお茶になります。

すぐ周りに流される意志薄弱な人は、まるでお湯みたいな無味無臭のお茶になるそうです。

みなさんが、自分でお茶を淹れるとすると、どんな味のお茶になるだろうと考えますか?

何か先ほどの話で、思い当たりそうなものはないでしょうか?

 

私は、気功師としても活動していますので、ほぼ毎日、2リットル入りのペットボトル1本分の気功水を作っています。

5分ほどかけて作るのですが、気を入れるだけで、水道水の味も変わることを体感として経験しています。

なので、お茶を淹れる人によって味が変わるという話を聞くと、気功水を作ったときの自分の経験から、多分そうなんだろうなということが体感として理解できます。

また、肌感覚で茶器を選ぼうという話についても、茶器から出ている気を感じ取るというところは気功師として、とても親近感が湧いてくるエピソードです。

 

また、私は、コーチングも学び、コーチとしても活動をしています。

一見、お茶とコーチングとは全く接点がありません。

ところが、本書の中に出てくる話の中には、幼少期に受けた、親から刷り込まれた影響力が大きく、「私ってこんな人間なんだ」という認識と「私はこんな人間になりたい」というギャップを埋められずに苦しむ話や「常識の枠の外」「理屈を超えた世界」にゴールを設定するからこそ、盲点が消え、新しい自分の発見につながるなど、コーチングの内容に通じる話も出てくるのです。

コーチングを学んだ方が、お茶の世界から見た視点でコーチングについて語っているようで、コーチングの視点から読んでみるのも面白いと思います。

 

また、茶器をきちんと洗うことで心を磨くという話があります。

茶器に限らず、ずっと愛着を持って使っている自分専用の道具には、その人の「心が宿る」と言われているそうです。

私の場合で言えば、約18年乗り続けている愛車になります。

毎週、手洗いで洗車、ワックスがけを心がけてきました。

暑い夏も蚊に何か所も噛まれながら、寒い冬は冷たい水でかじかんだ手で洗ってきました。

洗いながら、「いつもありがとう。いつもありがとう」とブツブツ言いながら洗っていました。

あるとき、愛車に乗って道路を走っていると、脇にあるスーパーの出口から猛スピードで出てきたベンツとぶつかりそうになりました。

もちろん相手が一時停止をして、左右の安全確認をしなければいけません。

ベンツが私の運転する車の前に割り込んで出てきた瞬間、「これは事故った。ぶつかる。」と観念しました。

そして、私の愛車とベンツがギリギリのところでぶつからず、かろうじてすれ違うのが超スローモーションで見えました。

幸い、紙一重でかわすことができたのです。

暴走ベンツは、さらにスピードを加速させて、そのまま走り去って行きました。

これも、普段、私が愛車を大事にしてきたので、愛車が自分を守ってくれたのだと思いました。

 

本の中で、茶器の専用化という話が出てきます。

すべての道具には、本来、与えられた役割があるのに、専用化せず、あれもこれもと使いまわしていくと、モノが雑多な気を帯び始め、お茶の味が濁ってくるという話です。

人に例えると、1つの役割を徹底して守っている人と、あれやこれやで頼まれごとを断れずにホイホイ受けて、いろいろな役回りをやっている人を比べると、どちらの方が仕事の精度が高いかということです。

おそらく、前者の方が仕事の精度は高いと思われます。

 

私の身に置き換えて考えてみると、後者の立場でバタバタ動きまくっていたことが思い出されます。

頼まれごとをされるのは信頼されていることだ、何でもやれる自分はすごいと思っていたところがありました。

ですが、その結果、過労で倒れるということになってしまいました。

人間は、そんなに万能ではありません。

与えられた仕事に集中して、丁寧に仕上げていくことでいい結果、作品が生まれるのだと思います。

私は、自分が過労で倒れることで身をもってそのことを経験し、思い知ることができました。

 

一杯のお茶を淹れて飲むというのは、ごくごく日常生活のなかで見かける光景です。

ですが、その裏には、いろいろな知識や技術がとりこまれていることに気がつかされました。

 

 

今回の本は、お店の茶人と悩みを抱えた青年の対話形式という形で話が進められています。

なので、文章もとても読みやすく、理解しやすいものになっています。

こういった読みやすい対話形式のやりとりの中にも、哲学や心理学などの要素が含まれていて、簡素な中にも深いものを感じることができます。

 

『惟神霊幸倍坐世』(「かむながらたまちはえませ」と読みます。)

これは神道の言葉で、「すべて神様の御心のままに。結果はすべてお預けいたします。」という意味です。

欲や執着を手放し、自分の心をチューニングする大切な言葉だそうです。

最近、お茶を急須で淹れて飲んでいないなと思われた方は、先ほどの言葉を唱えて、ゆっくりとお茶を飲んでみられてはいかがでしょうか?